江島(えのしま)宮城県

豊かな海に支えられて

漁港背後の急斜面に民家が密集し、迷路のような歩道が巡る。ホタテ、ウニ、アワビなど豊かな漁業資源を支えに結束して生きる。

  • 交通:東北道古川ICから車で60分あるいはJR石巻線女川駅から徒歩5分の女川港から定期船で26分
  • 特産:ホタテ、アワビ、ウニ
  • 食事:レストラン古母里(女川)0225-54-4601
  • 直売:マリンパル女川シーパルⅡ(女川)0225-54-4714
  • 宿問い合わせ:女川町観光協会 0225-54-4328
  • 関連ウェブサイト:女川町観光協会

※ 交通アクセスや店舗情報などは、お出かけ前にご確認ください。

※ 車ナビは、里を訪れる際の目標ポイントを数値化したマップコードで、()内が施設名や地点です。地図では★で示しました。カーナビのマップコード検索で利用できます。

2012年12月20日

ルポ にほんの里100選24 藤原勇彦 グリーンパワー2012年12月号から

   

震源直近の離島の1年半後 / 住民の半数が戻り漁にいそしむ

  

 「ここに帰ると、やっぱりいいねえ。海を眺めるだけで気分がいい。変化するから、一日中見ていても飽きない」。高台の建物の窓から眼下の海を眺め、島の区長、木村二三次(ふみじ)さんが、しみじみ述懐する。

 宮城県女川(おながわ)町の沖合13㌔にある離島・江島(えのしま)。昨年3月11日の東日本大震災の、震源に最も近い島の一つだ。周囲4㌔弱、90人ほどの島民が、ウニ、アワビ、ホタテ、ワカメ漁などの漁業で暮らしていた。あの日、2度の大きな揺れが来て、津波に襲われた。幸い揺れで倒壊した家はなく、急峻(きゅうしゅん)な地形を頼りに高台に避難し、島民全員が無事だった。「島だから、津波が両側に分かれて通り過ぎてゆく」。昔からそういわれていたことが、証明された形だ。しかし、電気、水道、電話、それに女川町との定期船が途絶え、孤立した。

 震災から5日後、避難指示が出てヘリコプターで女川町に向け離島、その後さらに、被害の激しかった女川町から親戚知人を頼って石巻、仙台などに住民は分散した。そのときの住民の願いは、「近い将来、90人、みんなで島に帰りたい」。江島は、「安心してご飯の食える」住みよい里だったからだ。それから1年半以上たって、島民は戻れただろうか。消息を尋ねるため、10月の末に島を訪ねた。

  

インフラ復旧が急務

  

江島の岸壁についた定期船「しまなぎ」

 震災から1年半以上たっても、女川町の中心部は相変わらず横倒しになったビルが放置され、それ以外のがれきは整理されて更地になったままだ。江島へ渡る定期船は、舗装がはがれた更地の先にある岸壁から、1日3便出航していた。シーパル女川汽船の定期船「しまなぎ」61㌧。この船は、震災時、津波を沖で避けて奇跡的に帰還したという。

 午前の便の乗客は約20人で、工事関係者と思われる人が多い。北風でややうねりの出た海上を、30分ほどで江島に着く。岸壁には、島の住人が、船で着く人や物の出迎えに来ていた。岸壁と、そこにつながる道路を、囲むように積み上げられた土嚢(どのう)が目につく。島が震災で1㍍以上沈下したため、低い土地の道路が、満潮時に冠水するようになり、応急処置をしているのだ。岸壁自

島のあちこちに建物を取り壊した跡がある

体も、船を着けるために60㌢かさ上げした。それでも満潮時には、なお波をかぶる。島の中を歩くと、津波で流された漁協の冷凍庫の跡をはじめ、高台でもあちこちに建物の土台だけが、むき出しになっている。

 江島の避難指示が解除されたのは、昨年の11月8日。定期船もそのころ運航を再開した。「島に戻って驚いたのは、使えなくなっていた家が多かったことです。余震で屋根瓦が壊れ、そこから雨漏りして、中が腐って住めなくなっていた」と木村さん。震災時は無事に見えた住宅や倉庫など70棟近くを取り壊さざるを得なかった。だから昨年11月、島に戻れたのは、島の生業・漁業に関係の深い人々を中心に22軒。その後多少増え、現在、26軒約50人が島で暮らしている。

 震災後、電気や電話は比較的早く回復したが、水道を

満潮時に波をかぶる漁船の船着き場と浸水を防ぐ土嚢

はじめ島のインフラの復旧は、差し迫った課題だ。本土からの海底パイプが破損した水道は、浜辺に海水の淡水化装置を置き、既存の水道設備につないで生活用水にしているが、「使っていなかった水道管がさびて、色のついた水が出たりするので、飲料水はペットボトルを取り寄せて使う人が多い」。今年度中に海底パイプを敷き直し、本格的に再建する予定だ。地盤沈下対策として、岸壁をさらにもう60㌢かさ上げし、すっかり波の下に沈んでしまう漁船の船着き場や荷揚げのウインチを使えるようにするために、町や国との交渉を進めている。集会所や避難所に使っていた江島開発総合センターは取り壊され、代替施設の再建も急務だ。定期船に乗っていた工事関係者は、海底ケーブルや通信施設の修復や更新にあたっている人たちだった。島内での宿泊が困難なため、本

海辺の道路は満潮になると冠水する

土からの通いだ。道路の補修を含め、まだまだやらなくてはならないことが多い。

  

50人が肩を寄せ合って

  

 「島の平均年齢は、いま70歳以上かな。子どもたちの世代は、教育や医療の関係もあって、皆、本土に住んでいる。これ以上戻ってくる人が増えることはないかもしれない」。木村さんが語るように、島の将来像は、なかなか思い描きにくい。が、住民同士は家族同然の安心感がある。「11月がアワビの解禁なので、去年は戻ってすぐ漁をやった。震災前からなじみのダイバーを頼んで、共同採取した。幸い漁船が4隻残っていたので、島の人が交代で乗って監視員を務めた。漁獲は思ったよりもあった。各地で漁をやらないところが多かったので、値段もまあまあだった」。ちょっと元気の出る結果だったようだが、「今年の解禁を前に先日あった入札会では、去年の6割ぐらいの値に下がった」と、木村さんはやや残念そうだ。

 今年の夏はウニ漁もした。津波後の海中の状態は、海藻が多く、ウニの育ちは良かった。ただ、震災以前に島のウニの加工を引き受けていた女川町の大手業者が被災したため、出荷できた量は多くはなかったという。それでも、「アワビとウニで、生活は成り立つ」めどが立ち、最近はさらにワカメの養殖に備えて、ロープを買い込んだ人もいる。

 「島の伝統は、島民全員が漁協組合員。漁に出ても出なくても島の全員に漁の成果を配当していた」。つい最近、島の暮らしに欠かすことのできない有線放送設備が、NPOの協力で復活した。「11月からのアワビ漁について漁協よりご相談があります。重要な会議ですので、全員お集まりください」。有線放送が呼びかけている。帰島した約50人が肩を寄せ合うような暮らしのありようが、浮かび上がる。

                           (グリーンパワー2012年12月号から転載)

2012年11月20日

ルポ にほんの里100選⑨ 藤原勇彦 グリーンパワー2011年9月号から

  

90人、みんなで帰りたい / 震源から一番近い島の願い

  

集められたがれきが谷を埋める。水面には海鳥が(女川町で)

 取材の時点で東日本大震災から、4カ月。宮城県女川町(おながわちょう)の中心部は、復興というには程遠い様相を呈している。おびただしいがれきが仮集積場に運び出された後に、がらんとした空間が広がり、横倒しになったビルの錆(さ)びた鉄骨が地盤の液状化と津波の破壊力をうかがわせる。港を見下ろす20㍍近い高台にある女川町立病院前の広場には、今も死者を悼む花やカードが手向けられている。津波は、この病院の1階にまで押し寄せた。

 その、女川町から東へ10㌔余の太平洋上、今回の地震の震源地域に最も近い離島と思われるのが、にほんの里100選の一つ、女川町江島(えのしま)だ。周囲4㌔弱、90人ほどが住むこの島は、震災の後、どうしているだろうか。新聞やテレビではなかなか伝わってこない情報を求めて、女川町を訪ねた。

  

▪海の中が山のように見えた▪ 

  

がれきが片付けられ、かえってさびしい印象のある女川町中心部

 江島の住民で、県漁協江島支部長の稲葉勝悦(かつよし)さんは、自宅でも女川町内でもなく、石巻市内の娘さん一家に、夫婦で仮寓していた。あの日の島の様子を訪ねると、「8月で73歳になるが、命のあるうちに、こんな未曽有の災害に遭遇するなんて、思ってもみなかった」と、何度も繰り返した。

 あの日、平地が少なく山肌に家が張り付くような島に、「でかい揺れ」が2度襲ってきた。石垣が崩れたり屋根が壊れた家が出たが、けが人はなかった。自宅にいた稲葉さんは、2度目の揺れとともに、浜に下りた。女川町とつながっている島の防災無線が、大津波警報が出たことを知らせていた。浜で漁協の関係者や、働いていた人々を避難させ、自分も退避すると、そこへ未曽有の津波がやってきた。「海の中が山のように見えました」。いったん潮が引いて、普段は見えない海底の凹凸が現れたという。しかし、津波は島の急峻な地形の石垣にあたって、跳ね返るように退いていった。漁協の冷凍庫など海岸の建物は倒壊し、浜に置いてあった数十隻の船は流され、さらわれた軽トラックが湾の中に沈んだ。けれど、人々は高台に逃れて、無事だった。その夜から翌朝にかけ、本土の陸のほうから2階建ての家屋が丸々何棟も流れてきて、湾口を出入りした。想像もできない光景だったという。

 島では、電気、水道、電話などのライフラインが切れ、女川町との定期船も途絶え、外部との連絡が途絶した。「必要な時に携帯がつながらないのには、本当にがっかりした」。いざという時の避難所に予定していた江島開発総合センターも、天井が落ちサッシが壊れていた。震災の翌日、廃校になった学校から石灰を持ち出し、道路に大きく「SOS 100人 水がない」と書いた。その日のうちに、救援のヘリコプターが降りてきた。その後は自衛隊や米軍から救援物資を受け、数日間を島でしのいだ。高齢化の進む島では、子どもたちが本土で暮らしている例が多い。自分たちは生きることができたが、子どもたちはどうなったか。消息を尋ねる紙きれを、祈るような気持ちで救援のヘリコプターに託したという。

  

▪本土へ避難、各地へ分散▪

  

 結局、震災から5日経って女川町の指示で、島の全員が本土へ避難することになった。「こんな状況で、町としても島にいる人々を支えるのが、大変になったのだろう」と稲葉さんは想像している。島民は、1人手荷物1個ずつを抱え、ヘリコプターに乗り、雪の降る中、避難所の女川第一中学校のグラウンドへ降りた。その後、3月23日で「避難所」を解散、子どもたちや親戚・知人を頼って石巻、仙台、東京などに散って行った。津波であまりにも大きな被害を受けた女川町の避難所に、負担をかけないようにとの配慮だった。漁協からは当座の生活費を現金で支援し、それぞれには手紙で連絡を取りあうなどしているが、事実上「にほんの里」の一時的消滅ではあった。

震災にあう以前の江島。家々は海面よりかなり高い所にある

 江島の、震災にあう前の日常は、漁業の島。沖合を黒潮がながれ、季節ごとに様々な魚がとれた。アジ、サバ、イワシ、ヒラメ、スズキ、メバル……。高齢化が進んだ最近では、手近な海で出来る養殖漁業のウニ、ホタテ、ホヤ、ワカメも盛んだった。「昔は島中どこでも自家用に畑をつくっていて、それは綺麗だった。島の高みに登ると、『おらが江島は四方の眺めが絵のごとし』と父に聞いていた。今は笹が繁ってじゃまになる。笹なんて昔は焚きものだったのに」。島の隅々まで、手入れが行き渡らないでいたことを稲葉さんは残念がる。

 震災後、島のライフライン復活の手がかりは、まだない。島が1㍍以上沈下し、岸壁が水没し、定期船が近づけないからだ。稲葉さんらは国交省、女川町などに岸壁のかさ上げ応急処置を働きかけている。町では、近々、小型船を借り上げて、島へ週1、2便の航路を再開し、秋までには土嚢(どのう)などを積んで岸壁を使えるようにしたいと計画している。

 「島の復活の第一歩は接岸できるようにすること。その後、満潮時に冠水する道路の修復や、壊れた養殖施設の復旧なども必要だ」。漁業の協業、資材の共用なども考えなくてはならないかもしれない。「とにかく安心して住める、大丈夫だよという状態にすること」。それが稲葉さんの願いだ。

  

▪安心して飯が食える▪

  

 このところ、石巻近辺にいる島の住民20数人は、ほぼ毎日、奇跡的に残った漁協の監視船を使って島に渡り、がれきの後片付けをしている。作業の合間に弁当を広げて緑の山を眺め、「ああ、江島はいいところだ」と実感するという。生まれ育った場所への愛着。島に帰れば、高齢者でも仕事があり、自分の力で生きる経済力を持てる。「子どもたちは本当によくしてくれます。何の不満もない。でも、帰りたいんです。出来れば、島を出たみんなと一緒に。安心してご飯が食えるから」と稲葉さんは言う。

                     (グリーンパワー2011年9月号から転載)

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