浅里(あさり)三重県

川が生活道だった山里

山の斜面に約50戸の家々が石垣を築いて身を寄せ合う。かつては川舟が交通手段。川と石垣集落の間の水田も調和がとれている。

  • 交通:紀勢道紀勢大内山ICから車で140分/JR紀勢本線新宮駅から車で30分
  • 食事:ふるさと茶屋おかげさんで(さんま寿司など郷土料理:車で35分)05979-2-4771/道の駅「紀宝町ウミガメ公園」0735-33-0300
  • 直売:JA三重南紀鵜殿店 0735-32-0143/道の駅「紀宝町ウミガメ公園」0735-33-0300
  • 宿問い合わせ:新宮市観光協会 0735-22-2840

※ 交通アクセスや店舗情報などは、お出かけ前にご確認ください。

※ 車ナビは、里を訪れる際の目標ポイントを数値化したマップコードで、()内が施設名や地点です。地図では★で示しました。カーナビのマップコード検索で利用できます。

2012年11月29日

ルポ にほんの里100選⑫ 百合草健二 グリーンパワー2011年12月号から

 

台風12号で壊滅的被害 / 山里の再生なるか/悩む住民

  

 紀伊半島を襲った9月の台風12号の豪雨は、浅里地区に大きな被害をもたらした。家屋が次々と倒壊し、土砂崩れや冠水で外部に通じる唯一の県道が崩壊した。住民のほぼ全員が救出されたが、10月下旬現在、半数近くがなお避難生活を強いられている。住民の平均年齢は65歳近い。高齢者が多い里山の集落は再生できるのか、現地を追った。

  

▪計測不能の氾濫▪

 

浅里の集落。いちばん低い所にある家の1階屋根まで冠水し、収穫後の水田は土砂に覆われた

 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」のひとつ、熊野川の航路沿いにある小さな集落には、54世帯103人が暮らす。山すその石垣の上に民家が立ち並び、川に向かって田園が広がる。そんな美しい里山の集落を、台風12号が一変させた。

 9月3日から激しく降り出した雨は、台風が四国を通過してからも勢いが衰えなかった。近くにある熊野川の水位観測所は4日午前2時50分、18・77㍍の水位を記録したのを最後に、機器の水没またはケーブル切断によるトラブルで計測不能になった。川は氾濫し、集落近くの二つの山が崩れ、水と土砂が集落を襲った。県道の10カ所ほどが土砂崩れや流木でふさがれ、集落は完全に孤立した。

 5日になって自衛隊のヘリコプターが地区に入り、住民約100人が救出された。その後、住民は親類宅に身を寄せたり、避難所で寝泊まりしたりするなど離散した。

  

▪自然豊かな里山▪

  

 熊野川は、かつては熊野三山への参詣道で、昭和30年代までは木材を下流に運ぶ「筏(いかだ)流し」があった。浅里など三重県側からは、国道168号が走る和歌山県側へ舟で行き来した。

 山仕事が減り、浅里から学校も農協も商店もなくなったが、大半の住民が米、野菜をつくり、共同営農グループ「百姓塾」や地域おこしの「郷(さと)の会」をつくり、集落活性化を目指してきた。町の圃場(ほじよう)整備で、耕作放棄地はなくなった。

 年末年始は名所「飛雪(ひせつ)の滝」のライトアップ、秋は特産物の販売や餅付きをする「瀧まつり」、2007年には、川の文化に注目して「三反帆(さんだんぼ)」と呼ぶ川舟の川下りと、アユや山の幸を組み合わせた体験ツアーを始め、町外の人が訪れるようになった。

  

▪「もう集落を離れたい」▪

  

山が崩れ(右奥)、集落の民家に保管してあった川舟も土砂に流された

 今回の大災害で、崩れた谷の近くに住む1人暮らしの男性(87)が行方不明になり、12軒が倒壊、17軒が水没した。

 町役場近くの避難所に避難した主婦(61)によると、豪雨の夜、自宅近くの山が崩れ、土砂が家の寸前を横切り熊野川まで流れていった。車が流されると爆発音とともに炎が燃え広がった。雨の中、夫と隣のお年寄りと3人で裏山に逃げ、一晩かけて隣の集落の避難所にたどり着いたという。

 周辺に9軒あった家は土砂崩れで流失し、自宅を含め2軒だけが残った。「周りに助け合う人がいないと寂しくて、もう住めない。集落を離れたい」と打ち明けた。

 災害から約1週間後の9月11日、浅里まで通じる川沿いの細い県道が仮復旧し、孤立は解消した。住民は避難

がれきに埋もれた農産物の無人販売所

所から日中、水没した家の泥かきや家財の片付けを繰り返した。県道沿いにある農産物の無人販売所はがれきに埋もれ、集落で今年採れたばかりの米はほとんどが水につかり廃棄された。

 その後、1カ月以上経った10月中旬、避難所は閉鎖された。自宅が倒壊した住民は、応急施策として町が借り上げた住宅に移り、浸水した半数近くの住民は浅里に帰ってきた。

 今でも県道は、所々で巨岩や流木が路肩に残り、ガードレールが落下したままになっている。頻繁に電線の修復やがれきを撤去する災害復旧車が砂煙を上げて行き来する。

  

▪「山里の再生難しい」▪

  

 区長の聖谷(ひじりたに)定三さん(60)は「農地や道、水路が復旧しない限り山里再生は難しい。今は自分たちの暮らしで精いっぱい。百姓をやめて出ていく人が出れば、残った人の負担が増える。何とかしたいが、国や県、町の助けがないと、自分らではどうしようもならん」と不安を隠せない。

 郷の会会長の清水良友さん(59)は和歌山県串本町の親類宅で避難生活を送る。「浅里に戻るのか思いは半々。会のことは何も考えられない」。

 定年退職で大阪から夫婦で移り住み、積極的に地域おこしにかかわってきた裏木国弘さん(67)も心が揺れる。「多くの仲間が残ってくれと言ってくれるが、百パーセント戻るかまだ決められない」。都会に暮らす息子家族が反対しているからだ。

 水没した裏木さん宅の修理を手伝っていた「アユ釣り名人」で三反帆の船頭もする尾崎靖さん(80)は「川に泥が入ったらアユはとれん。川がきれいにならんと人も来なくなる」と肩を落とした。自慢の川舟は、がれきの上にうちあげられたままだった。

 65歳以上の高齢化率は57㌫に達した。地区の集会所までが水没し、浅里の今後について話し合いをする、めどは立っていない。

 自宅の修理をしていた聖谷さんは、「外との交流がないと集落は寂れるばかり。元の集落に戻るには4、5年はかかるが、ここで暮らしていく限り、みんなで知恵を出し合い、頑張ってやっていくしかない」と話した。だが、山里の再生は、行政や外部の支援なしでは厳しい状況になっている。

                                              (グリーンパワー2011年12月号から転載)

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